晩年の 佐藤剛蔵

都筑区センター北、井上歯科クリニック 院長 井上です。
大分の伯父から手紙と写真をもらいました。
私の曽祖父です。貴重な資料ですので、ブログに載せます。

和田秀隆(大分市在住)
私は 佐藤剛蔵の 三女 ミエの長男、和田秀隆( 父 和田隆) と申します。
1935年( 昭和10年) 京城で生まれ、戦後昭和 20年 秋、父の本籍地大分に引き上げました。祖父 佐藤剛蔵 は 昭和 20年暮、京城 から引揚げ後、京都右京区嵯峨野で 晩年を過ごしました。

昭和 33~34年の頃、私は熊本で 医学生でしたので 休暇の折りに幾度か京都を訪れました。 嵯峨野へは 嵐電 に乗って、 春の頃には 満開の 桜のトンネルを 抜けていきます。 うららかな京都郊外の嵯峨野が印象に残っております。

居宅は 閑静で、庭に青菜を植えていました。声には張りがあり、少し照れくさそうにユーモアあり、会話は楽しかったと思います。居心地が良くて2~ 3日 滞在していました。

苔寺(西芳寺)がいい 、南座隣の にしんそばが旨いと聞きました。まさにそのとおりでした。殊に奈良には是非行くといいと言われました。奈良電に乗って 興福寺や 法隆寺を訪れました。観光客も少なくて古の都に想いを寄せることができました。

京城医専校長 就任 について話してくれたことがありました。第二代校長 志賀潔博士(赤痢菌発見者)から 次を継ぐようにとの話があり幾度も断ったが、他にはいないと 重ねて 話がありお受けしたとのことでした。(昭和 2年 6月 28日 付 第三代校長 発令)

志賀 博士は立派な方だとも話されて、志賀博士のことは当時 医学生の 私は 充分に存じておりましたからこれは大変に名誉なことだと感じておりました。未だに思いますが、二人にどこか 相通ずることもあったのではないかと思うのです。

昭和 57年 10月 、第36回 有隣会(京城医専同窓会)総会 山口大会 が行われました。
京城医専化学主任教授 成田 不二夫先生 から 「佐藤剛蔵先生 の 23回忌に当たるとのことで 山口大会には ご遺族の方々をお招きして御遺徳を偲びたい…お含みの上よろしく 御願いいたします。」との 三女 母 宛てのお手紙をいただいております。(昭和 56年 3月 1日付け)

総会山口大会には 佐藤 トキエ、 長女 佐々木 ハツ、三女の長男 和田秀隆が出席しました。有隣会の先生方が多数お集まりでした。

昭和 35年 5月、祖父の状態が思わしくないとの報らせを受け、私は熊本から、母は大分から入院先の 京都府立大学病院へ行きました。腎機能不全 によりほぼ昏睡状態で言葉を交わすことはできませんでした。私には最後の対面でした。

5月 13日 に亡くなりました。 葬儀には 佐藤 トキエ、 長女 佐々木 ハツ、 次女 林 ヨシ、三女 和田 ミエが参列しました。

付記
昭和21年5月30日、第三代校長勅令により退官。
有隣会:初代朝鮮総督府医院長 藤田嗣章、“徳不狐必有隣” の有隣を取り命名。
参考資料:佐藤剛蔵、「朝鮮医育史」昭和31年5月5日、佐藤先生喜寿祝賀会。
和田秀隆: 1935年 京城にて出生。熊本大学医学部卒業、熊本大学病院文部教官 助手、大分県立 病院 脳神経外科 部長 (脳神経外科 専門医 医学博士) 大分市保健所所長、現在、大分リハビリテーション専門学校校長。
写真 :佐藤剛蔵、口を一文字に結びポーズをとってくれました。(昭和 34年 3月)

令和 4年 3月 和田 秀隆